大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

儀式

最近よく思うのは、オナニーってもはや儀式じゃないかと。

 

私はユカオナニストなのでいわゆる"抜く"という動作が省かれているが、それ故にまた行為に対する解像度が下がっている。

 

まずオカズが存在する。これはいいだろう。

そして私の場合枕と地面が必要になる。

後者によってオカズの中の世界との並列した関係を模している。偶像崇拝じみている。私はいわば、仏像や十字架を抱擁しているのだ。

 

私は、人は欲望に区別をつけられないのではないかと最近感じているのだ。

 

射精欲は必ず性に結びついているのだろうか。しかしそれはただの排便欲と時として同じように思われる。ほら、オナニーする前にトイレに行ったらなんだか解消されたって経験ないか?それよ。

 

これは生理的と性的の違いの曖昧さなのだろうか?

 

よく考えると、いやよく考えてしまうと、射精が性的なものの促しによってのみ起きなければならないというのは実に変じゃないか。ましてやそうでもないと満足しないというのは。

 

私は「この衝動を然るべき仕方で処理せねばならない」という、冷静な盲目さになぜか面白味を見出している。それは誰かを叱っている最中にかかってきた電話へトーンの高い声で対応することに似た何かだ。

 

ああ、こう言えばよかったのか。私は、性的なものにまずアクセスし、そこで"正当な"興奮を得ているというこのプロセスが「整備された獣道」だと感じられることに驚いているのだ。

 

いやもっと簡単に言えそうな気がする。

 

こうか。「射精を促すもの」は否応なく性的だという想定があること、これが不思議なのか。

 

それは性的ということの不思議さと関連してる。なぜ性的なものはスキンケアや口腔ケアの領域と殊更異なっているように見えるのか。

 

言い換えれば、なぜ歯医者やエステに行くのと同じように風俗には行かないのか。うーん。単純に考えれば、性の営みは子供を産むための行為として直結しているはずだという想定が一方でありながら、風俗はまったくその道筋から外れたものだからだろう。

 

つまり、生理的なものへと最も近づくのに成就しないようにするという"遊び"が本質だからだ。遊びの中では、ごっこ遊びに似ている。

 

しかし問題はこうだろう。なぜ性的なものはこのようにほかの領野と分けられているのかということだ。というのも、ごっこ遊びをする子供は、ごっこ遊びが楽しいという事実やそのメカニズムを知って遊び始めるわけではないからだ。

 

私はまず、射精のその前には性的なものが控えているという前提に疑問を呈し、では性的なものとはどんなものかと考えた結果ごっこ遊びみたいなものだと断じた。しかしどこか煮え切らない。私はまだ、問いたいことを掴めていない。何か、何か決定的な問いがない。