懐疑延長
模倣の法則下において私は自らを、ある人によるある行為によって生まれ、また何かを生んで何かを滅ぼすその過程の一部分だとすぐさま思いなす。
しかしその時私は、その模倣しか存在しない中にオリジナリティという考えが、また同時にそれの模倣という考えが生じていることに不思議を思うのである。
模倣しかないのなら一体なぜ模倣が殊更言われねばならないのか。オリジナリティが無いというなら、なぜオリジナリティが無いと私たちは気付くのか。何が無いと言ったのか。
何にでもケチをつける人は、ではそれに代わってどうして欲しいのかを言えなければケチをつけられないのだろうか。権利問題としてはそうかもしれない。しかし事実としてそうなのかと言われたなら、そうではないだろう。
模倣説はこのケチに似ている。ケチをつける人は理想的な提案ができるわけではなく、ただ貶すために貶すのだ。それと同じように模倣説も、ただそう描きたいがために描いた説なのではないだろうか。
この意味で模倣説とはだから、感嘆詞に似ている。「わぁ?!」という鳴き声なのである。この意味で、というのは、「全体を主語にして記述する手法全般のこと」である。一元論しかり、存在の思索しかり。