大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

老練なジジイ

本麒麟と翠を混ぜて飲むと本麒麟のアルコールと香りが翠に成りかわったような味になる。それはどこか黒ビールの風味に近付いている。飲み続けると意外に悪くない。

 

腕力は主人公格に一歩譲るが、築いてきた技術は極致にあるジジイって多いよね。大体このジジイが大傷を負って主人公が結局は乗り越えるみたいな展開もセット。

あと、妙に今日日のゲームやコンテンツに迎合する、『老害コントロール』を受けているジジイもいるよね。逆張りという過程が隠されていないあからさまに張られた帆は、インターネットという広くも虚ろな海風をどう孕むのだろうか?

 

パワプロのペナントモードでも、衰えつつある選手はその能力がどんどん落ち着いていく他方で、教えることのできる能力は積み重ねてきたキャリアに一定までは対応する形で上がっていく。

 

しかし正直ケチくさいと思うことがある。

これらの例はその場に存在することは何であれチャージ料が発生しているのでなければならないと言っていないか。つまり、なにかしら秀でたところのないものは存在すべきではないし、存在していることにならない、みたいな。

 

でも私自身が若いからか、たまになんでジジイ含め老人だけがそこまで尊敬を独占する向きがあるのか分からないと思うことがある。

 

この猜疑は二つの道に通じている。

 

一方は、「どんなやつでも一定の敬意を払うべき(言うなれば省エネ的尊敬態度)」。

他方は「だからなにか尊敬できるポイントのあるやつへ敬意を払うべき(尊敬における実力主義)」だ。これがつまり今まで書いてたジジイ像。

 

私はどちらかといえば前者に重きを置きたい。なぜなら、なにより老害を恐れる態度そのものが老害を産むからだ。

 

というのは、老害を怖がる人は、例のジジイ像を目指すばかりだからだ。つまり、若者になにか勝てるところがあり、若者への迎合を絶えず欠かさない存在になるということだ。

 

これはハタから見れば老害といって差し支えない。なぜなら、若者に張り合い、なおかつ若者ぶろうとする身の程も知らないやつを老害と表現する以外になにがあるだろうか?

 

さて、私は老害批判をしたいわけではない。

 

なぜなら、ジジイ像を求めているのは現在老人である人ばかりではなく、ただジジイではないという意味での若者だろうからである。

 

若者にとって、ジジイは理想の老い方の体現である以上に"都合がいい"のではないか。

 

ジジイをこのような仕方でイメージの土台に設え、現実の老人に当てはめようとする。ジジイはあたかもモデルルームのような立場にある。

 

ジジイになろうとする老人、そしてジジイを利用する若者。両者に共通するのは、両者が分かり合え"ない"ことを無視しているという点だろう。

 

ジジイを望む老人は、若者を知った気になり、若者を考えの上で知ろうとしてしまうこと自体に生まれるその必然的な「老い」に無自覚だ。その無自覚を皆が老害と呼ぶ。

 

ジジイを利用する若者はあくまで"若者の"劣化としての老人以外は眼中にない。若者がいつまでも若者のつもりなのは、老いるという事態を若者基準で考えざるを得ないからであり、その考えざるを得なさを必然的に知れないからだ。

 

老人も若者も、相手のことを思考対象として扱い、思考対象として扱うこと自体の必然的な無自覚さを知れない。

 

いつまでも若いままだと皆が渇望するところに老害は生産され、その若さの定義はそいつに帰せられる力や成果によってなされる。