大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

欲望心内懐疑

縁起の法則とは、模倣の法則である。

正確には、始まり-終わりの法則である。

 

カントに言わせるまでもなく、形而下の世界で始まりのイデアに値する存在は見つからない。人は始まりだけで始まりを見ることが出来ない。「始まりと終わり」"の中の始まり"しか見ることはできない。

 

本当の始まりは、始まりだけで完結したものでないといけない。しかしそんなものを私たちは認識できない。認識にさえ、「始まり-終わり」が絡むのだから。

 

そこでこう囁かれる。最も始まりに値するのは始まりという理念それ自体だと。白いのは白熊ではなく、白さそのものだと。

-これは、「心はどこにもない」というセリフを、「心は遍在する」へと組み替えて想像することに似ている。

 

しかしそれではこう思われないだろうか。では、どうして私たちは有り得ないことを探せたのかと。私たちは見つかりもせず、成就するはずのないものを、なぜ望めてしまうのか。

 

それをどうやって説明するのだろうか?形而下の世界では難しい。なぜなら、この世界の事象はすべて例の法則の支配下でしかなく、この法則を違反してしまう欲望を説明できないからだ。否、正確にはもし説明できるとしたらそれは例の法則の変種に過ぎない。

 

だがそれこそ問題なのだ。この法則にとってこの法則自身が明らかに異物である自己充足の存在と同じになる。

 

自己充足は、私たちにとって奇妙な異物である。それは何も言っておらず、何も説明しない。にも関わらず私たちを触発している。

そう告げるのは例の模倣の法則だが、模倣の法則はそれ自身として見ればこいつこそが当の異物なのである。もし自己充足が有り得ないとすれば、自己充足が有り得ないこともまた有り得ない。

 

模倣の法則からは、模倣の法則が発見されること自体を説明し得ない。それは模倣の一動作ではあっても模倣の概観の描写ではない。