大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

垂れ流し腹下し1

今日でもそうでなくとも幸せとあれば価値あるものなわけです。

 

さてしかし、そうは言えども「幸せじゃないとそれは人生に値しない」とは簡単に言い切れますまい。

 

そりゃ、まるでもう死んでしまって命の外から算段を踏んじまえば、そうやって言えるかもしれませんが、こちとらというか、どこを見ても人生初心者の人しかいませんね。だれもが"なったようにしかなっていない"わけでして。

 

本屋なんてのを少しばかりグルリとしますと、「なぜ億万長者は神社に欠かさず行っているのか」みたいな題名で今か今かと啓発していただけそうな書籍を見つけられますし、最近ではアナウンサーの加藤綾子さんが書いたとされる人生の攻略本らしきものも見かけました。ニュースだけでなくて人生のアナウンスさえしてもらえるなんて、こりゃ種無しスイカ。種も仕掛けも詳らか。でも、この億万長者とやらが大損こいたり加藤綾子さんが不倫なりなんなりをしたら、そこ限り見向きもしないんじゃないか。

 

どうも私たちは夢を見る時と同じく、"逆転"させて物事を理解するクセがありますね。ついつい「地図に書いてあるからここにはレストランがあるはずだ」と思うし、「指をさしているからその先にはなにかが在るんだ」と信じるわけです。

 

つまり、これに書いてある通りにやっていけば億万長者に、とか思うわけですし、まあ事実成功したと感じることもあるかもしれませんが、その呼び水というか下支えは、まずは億万長者の口からそれが出たのだからという安心が先行しているのではないでしょうか。だからいざその呼び水が決壊すると濁流のごとく淀んだ強い罵りが飛び出してくる。これは「なったようになっている」だけであったものを、「なっている」から逆算した上でその値を期待したというふうに言換えることもできましょう。

 

幸せはどこかに書いてある何かなのでしょうか。でも幸せやら成功やらをテーマにした本が多すぎないか。みんな実は分かってないんじゃないか…。このような誰かと誰かの間で交わされた約束のように決まっている何かでしかないのでしょうか。約束だから守られるのでしょうか。でも破るから約束してるんじゃないでしょうか。「行けたら行く」って?そりゃぼくが息をしてるのは息ができるからだろうよ。ほら可能性は現実性に先立つらしい。おお、思考が絡みつつ転がっていく…。息する前に呼吸可能性を拝みたいなぁ、なんて鼻息も自然荒くなります。

 

閑話休題。こうじゃないでしょうか。

 

本やひとかどの人物から飛び出すことを期待される幸せやそこへいたるための方法論というのは、「成功」と区別し難いしかたで「幸せ」を教えてくれようとするところに、本質というのがあるんじゃないでしょうか。

 

ほら、億万長者も有名アナウンサーもこういってよければ"成功"してるわけです。

 

「成功」というのはこの場合この億万長者やアナウンサー自身というより、億万長者であることやアナウンサーであることを重要視し、価値あるものとする周りの人々の与える指標なわけです。億万長者と言うに"ふさわしい"(値する)金額や身なり、女子アナと言うに…という共有・約束可能なものです。

 

さて、「幸せ」の方はどうでしょうか。私はさっき区別してないじゃんと書きましたし、実は区別しようとしましたし、厳密に同じではないと思ってもいますが、結局「幸せ」もやはり同じようなもんだと言いたくなりますね。だって、こうやって現に、「「幸せ」って何よ」って答えを誰かや何かに求めているわけですし、その答えは「幸せとは」と問われている内容自体からは出てこないような何かにかこつけて編み出されるしかないでしょう。そうしないと、幸せは幸せよ、となるしかない。

 

で思うわけですよ。たぶん、「「幸せ」とは何か」と問いに付す限り、私たちは幸せにはならないんじゃないかと。だって答えには必ず幸せではない何かしか出てこないのですから。もしある答えに満足がいくなら実はその時私たちは"騙されている"のです。問うていたものと解決されたものを勝手に(身勝手にというわけではなく)"擬人化"しない限り、答えに満足はしないと思います。

 

ほら、髪の毛の色変えたってその人はその人でしょ。何から何まで同じだったかをあらかじめ算定しないとその人をその人だと思わないなんてことはない。っていうか、その算定の前提にすでにその人がいるでしょう?同じように、幸せが問いの階段に登る時には、幸せは人みたいに扱われるしかない。

あれ、でもこれって幸せじゃなくて、問いの対象であるならほとんどあてはめられそう。まさか問いに付して答えを出そうとすることってそういうことなのかしら。やだ新発見ねえ。人間は人間の身体に似た道具をどんどん作っていくってどっかで聞いたけど、思考もそうなのね。思考の道具も人と似てる。でも似てるといっても"二つを"並べてないね!鏡像を理解するために鏡像を見る必要なんてないんだから。

 

まあいいや。実は幸せとはそれ自身は実は幸せではない何かにかこつけて表現されるのであって、幸せなるものがどこかにあるわけではないと暗に悟らない限り、答えとして受け取れない、つまり満足しないのです。

 

なんだかこうやって言いたくなります。幸せとは幸せではない何かのことです。ま、これが「答え」になっているなら私が言ったことは間違いですし、「答え」になっていないなら正しいことになるのですが、私は悪くないのだ。近所の神主いわく、幸せかどうかを問うことができてしまうことにまず幸せを覚えよとのこと。さすが神主、"有難い"且つ変態的だ!DenkenとDankenの古い絆にも敏感なんだね先生!

 

…まとめると、幸せに興味を失うと幸せになるかもしれません。なんてつまんねえ話だよ。うんこ。