詭弁
人は知ることを欲するとかアリストテレス先生がおっしゃってましたが、これに僭越ながら、できることならなんであれ真実を知りたいとも望んでいるのではないかと加えたい次第でございます。
いや、これもそもそもアリストテレス先生が書いてたっけ。まあいいや。『形而上学』は彼にあげてしまっているし、確かめようがない。
さて探求するにあたって、真実とは何の且つどんな真実なのかというとが問題になるのだろうが、実は"これ"こそまさに知りたいことなんじゃないか。
つまり私たちは自分の知識について満たされていないと確信しているわけだが、その全体像(どこまでいけば満たされたと言い得るか)こそまさに知らないのだから、実は満たされているのかいないのかこそ本来は不明なはず。
しかし満たされているのかいないのかが不明であるなら、逆説的に、確かに私たちは満たされていない。なぜなら不明とは知らないということであり、知らないということは満たされていないということだから。
しかしそれではこの欲求、すなわち、「何であれ真実を知りたい」はなぜ発生したのだろうか。
さらに言い換えれば、なぜ知りたいという欲求の対象が真実であることは確かなのだろうか?さらに正確に言えば、発生したものが「何であれ真実を知りたい」だと知っているのは何の因果だろうか?
真実とは何かを知らないのに、真実を求めているのだとしたら、何を得たところで満たされはしない。何を得ても、それが真実だと分からないのだから。
だから、もし真実やら真理と称される何かについての探求がそもそもあり得るのだとすれば、そして満たされることがあり得るのだとすれば、何か真実の手掛かりになるものを元々持っていなければならない。
しかしそれは一種の自演ではないか。
これはまるで、「人は真実や真理を知りたい」というのは正確な表現ではなく、知っているものはともかく真実であると確信しない限り真実や真理を知ることはできないと言っているように聞こえるからだ。そして人は、この"錯綜"にほとんど目を止めない。
なるほど、人類がかつてから知りたがっていた究極の真理というのは、「人類が欲しているもの"が"真理だということなのだ」と"知る"ことなのだ。