大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

去らば日曜日の使者へ

わたしは自分が生きていることを心臓の鼓動によって確かめはしない。

 

わたしは自分の瞳が黒いことを生きていることの証にしても、証に仕立てたから生きているわけではない。

 

わたしの目の前に目は無いのに、目の前だとわかるのは奇妙な話。このときの"わたし"は誰?目ってどこ?

 

目の前の"何か"が通り過ぎていく。

 

誰かが、この"何か"のことを教えてくれる。

 

あの人はお隣さんよ、あの人の使ってる自転車は電動式だ、いや間違えた確かダイエットのために普通のにしたんだった、云々。

 

誰かは正しいことを言ったこともあるし、今みたいに間違えてしまうこともある。何にせよ色んなことを教えてくれる。でも教えてくれないことがある。

 

それは、"何か"のことだ。何かについて、誰かは正しいことも間違ったことも言う。だけど、何かがその時存在していることは、間違いもせず正しくもなく、ただ自然と、成立している。

 

わたしも"何か"も、ただ忘れられながらある。