大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

連続性

ある写真A〜Dがあなたの目の前にあるとせよ。

ある人は言うのだ、「この写真はすべて一つの被写体xを写したものなのです」と。

しかしそのxはいかにしても写真の次元に現れてこない。それはいつも、ただ"前提"されているだけなのだ。

 

こう考えてみよ。Dには、A〜Cとxが写っている。これが"写真の次元に現れる"ということの理想的なケースだと言えよう。

 

しかし、これでもなお、「A〜Cまでに同一の被写体xがある」という事実は写せていないのである。

 

カントは「存在」をレアールな述語ではないと述べた。その意味は、存在すなわち「何かがあること」は「何かが黒色である」などの状態や性質の一つではないということである。ハイデガーならば、存在と存在者の区別と位置づけるような事象を彼はこのように表したわけである。

 

俺が言いたいのもこの系列に属する。というのは、「同一の被写体を写した」という時の、「同一」とは、被写体の性質ではないからだ。

 

被写体がどれだけ多くの変容を被っても、同一個体の被写体がそれを被ったということが分かるかぎり、被写体の状態と被写体の同一性は峻別されている。そうでなければ、「コーヒーの味が変わった」という事態と「このコーヒーは前のコーヒーとは違う商品だ」という事実とが区別されないということになる。

 

そして重要なことがある。「コーヒーの味が変わったこと」と、「このコーヒーは前のコーヒーとは違う商品だ」ということの違いを我々が説明したり示そうとするとき、それはただ前提されているだけで、言うことができないということである。

 

あなたはこう言うかもしれない。「そもそも、xなんてどうやって認知したんだろう?見る限り本当にあるのは諸々の写真の連続なんだから」。

 

ちがう。あなたはツメが甘いのだ。なぜなら、あなたは写真を認め、その連続を認めているのだから。そして問題は、それが写真だとあなたが分かることそれ自体であり、その連続があり得るかどうかということそれ自体なのだ。

 

『碧眼録』だったか。盲の人々が大きな一頭の象の部分部分を触りながら「象ってのはさぁ」と口々に主張しあう。我々は微笑みながらこう言うのだ。「その部位からすこし右にいけば太くて硬い大きな脚があるし、背後に回れば可愛い尻尾があるのに」と。さて問題なのは、あの盲人どもも我々と同じ微笑みをたたえているということなのである。

 

我々はいまやこう問い返さねばならない。「我々はなぜ、かのような問いを立てることができ、そして不思議だと思うことができたのだろうか」と。なぜなら不思議なことなど何一つないのだから。そしてそれが不思議なことなのである。

 

我々はこのような立場にある。

 

・どの写真にも同一の被写体xが写っているということを不適切に表現すると、いわば無限回の「連続」をしていると言わざるを得なくなる。

・だが本来尋ねたいことは、その連続が何を連続させているのかということのその「何」の所在である。だからこれはただ前提されているに過ぎない。

 

さてしかし、その「何」とは、特定の内容が定まった「何」なのだろうか?あなた自ら思考してみよ。