大人のダンボール箱

ここはクソ長い文をひたすらに吐き出す便所であり、あなたは便所紙だ

真昼のビール

こんなことを思い出した。

 

花の競売場でバイトをしていたところ、「580番」と書かれた場所にちょうど同じ番号の花を持って行かなきゃならなかった。書かれた通りに運ぶってことだ。

 

常日頃ではそれでよかった。

 

でも季節が変わっていくと花もその装いや種類が転々としていくし、いつもは見ない番号の花がやってきた。その番号というのが「581番」

だった。

 

悩んだ。確かに580番ではないからこれは違う範囲の場所に持っていくと考えられる。

でも他の番号の範囲にはたとえば、「1075〜1500番まで」のように一定の緩さが設けられていたりする。少なくとも今日の「580番」もこれじゃないかとも考えた。

 

8秒間程悩み抜いた末、ぼくは580番という顔馴染みの親戚のところへ持っていくことにした。

 

そうすると、あれやあれやと、少なくない人々がぼくと同じように振る舞い始める。

そう、みんな分からなかったみたいだ。ぼくの行為がその動機付けになったんだろう。ぼくの長い長いあの8秒間は、みんなにとって、運んでいる花の花弁がその住処を地面に転居するほうが重大に見える程度には、些細だった。

まあ弁償しなきゃいけなくなるかもしれないからそりゃそうだけど。

 

でも神は細部に宿る。神は神経質なんだ。そう信じている。神は名を主張しない故に、神を確信することができる。事実、みんなは当の行為があまりにも当たり前に見えたから従えたのだ。

 

ぼくの方も乗せられて、半ばお祭り状態になっていく。実は581番は580番なんだと思うようになれた。1か0かという存在論的な断絶は習慣形成と一つのアクシデントによって軽々と無視される。無から有はあり得ないという古代ギリシアの名のある格率は形而下には降りてこない。ここはキリスト教圏だったから、無視されたのだ。

 

でもこの断絶、やはり断絶であった。ぼくたちの581番が580番になった祝祭の事後に、職場の責任者が御神酒でなく冷や水をぶっかける仕方で差しにきた。

 

ぼく(たち)の常識制作というか習慣形成、規則形成とでも言えようこの出来事は、職場の責任者の一言で潰されもするが、逆に言えば責任の所在がもはやはっきりしない場合はなかなか持続するのかもしれない。

 

こんなことを考えながら仕事など出来るはずもないので、ぼくはクビになった。

ビール飲みながら

「あ〜、あなたのアカハラのせいで胃潰瘍になってしまいました」(古畑任三郎風)

 

ってな怒り方をしてたのを見て思い出したのは、小学校のマジメな女子の口ぶりだ。こいつ、毎日心身のどっか痛めてんな。戦中実らなかった道徳教育がついに花開いたのか。

 

ただただ嫌だ、じゃなく、例えば「あまりの怒りで声が出ません」とそれ自体はどこか冷静に、"感情的な"非難を訴えるシーンが思い出される。

 

それが安っぽい舞台上のセリフのように聞こえたから、「あぁ、僕たちのファンタジーって帰りの会なんだな」という所感がしたのも、同時に思い出された。物語は心の痛みという何かに意味を与えるんだ。そう"正統な痛み"。"悼むべき痛み"。小学校で、大体の処世術は編み出され、実践される。僕たちは味を占める。

 

いわゆる「女嫌い」というのは小学校にいるこの類の「子役」や「チクリ魔」に端を発するような気がする。見たら不快だというのに、わざわざチクるために見にくる。そして当然のように感じるその不快さは正義の代償なのだと思い込むことで、ジャスティスポルノが加速する。人は早い段階から自慰を表明するのだ。

 

俺たちは褒められるようなことはしてない。たしかに。だが煮え切らない。なぜそこまで怒られるのか。あいつが傷ついたからか?それは言ったもん勝ちじゃねえか。そういった苛立ちが芽生える。だが…何が有効打になるのか…。わからない。

 

気にしなきゃいいじゃん→「あんた達は自分たちの声の大きさを知らない」

俺たちだって嫌なことあるよ→私たちだって→以下堂々巡り。

笑って流せよ→「嗤われることと笑うことは違う」

お前らが授業中にコソコソ手紙回してるの知ってるけど俺たちは何も言ってないじゃん→「話をすり替えるな。だからって今のあんた達のやったことが良くなるの?」

 

ってな具合に大体平行線を辿る。まあ関係性の方が平行線だったならかち合うことないから平和なんだけど。

 

こんなやり取りの何が嫌になるって、最後に声を出した方が勝ちになるからずっと叫び続けないといけないところだ。黙ってたら何もできなくなるし。嫌なところを互いにあえて見つけだすなんて、逆ポリアンナだ。ポリアンナのポリってのはアレなのか。政治的な、正しさ的な、アレなのか。

 

戦争ってのはこうやって起きるし、ネット空間では毎日ファットマンかリトルボーイが落ちている。原爆は影と後遺症は残してくれたけど、ネット空間では皆が影も形も消そうとしてくる。ゲンだって裸足で逃げ出す。クソ森だってクソと言われたから被害者になれる。そんな優しい場所。ここはインターネット。ここはインターネット。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けり

どうやって終わればいいんだ。

 

最初から始まれないものが、いかにして終わることができるのか。

 

最初にとって、最初の誕生と死は同時であり、それは不可能であり、堕胎児だけが彼の腕にある。

 

終焉にとって、終焉の誕生と死は同時であり、それは不可能であり、堕胎児だけが彼の腕にある。

 

同時にとって、最初と終焉行きの道は途切れており、それは不可能であり、堕胎児だけが彼の腕にある。

 

この堕胎児は我々の常識についての青写真という母体からやってきた。詐称された出産である。これ抜きに我々は存在できない。

タイトル

タイトルはどこにある?

 

この中には文章はあるがタイトルはないぞ。

 

文章というからには始まりがあったはずだ。

 

文章というからにはその始まりは終わった後にやってきたはずだ。

 

読者はどこにいるのか。君のことなのか。

 

私はこれだ。どれかというと←のことだ。←←のことだ…。

 

カルビ大陸

「ねえあんた、わたしはこれでいいのかしら」

ーなんだよ急に。どうしたの。

「ねえわたし、やりたいことないの」

ーなんだ。どうもしたくないの。

「わたしねえ、これまでなんにも成し遂げてこなかった。もうわたし、50よ。あと10年でばあちゃんが倒れた歳よ。それなのになんでわたしにはやりたいことがないの」

ーかあさん、かあさんはさ、「なんで私は何かに疑問を抱く前に"この疑問"には答えられないの?」って言ってるんじゃない?

「"この疑問"って何?」

ーなんで私は何かに疑問を抱く前に"この疑問"には答えられないの?

 

ああ、もう肉焦げちゃったよ。食えたもんじゃないね。

 

 

急募!

どなたかいらっしゃいませんか!

誰でも構わないのです!

どんなものでも我が社は揃えております!

 

ええ!誰でも構わないのならなぜわざわざ勿体ぶって募るのでしょうか!

ええお答えいたします!誰も来ないからであります!

ええ!?でも私はこうやって面接にやってきました!

 

いいえ、それでは余分過ぎます。

連続性

ある写真A〜Dがあなたの目の前にあるとせよ。

ある人は言うのだ、「この写真はすべて一つの被写体xを写したものなのです」と。

しかしそのxはいかにしても写真の次元に現れてこない。それはいつも、ただ"前提"されているだけなのだ。

 

こう考えてみよ。Dには、A〜Cとxが写っている。これが"写真の次元に現れる"ということの理想的なケースだと言えよう。

 

しかし、これでもなお、「A〜Cまでに同一の被写体xがある」という事実は写せていないのである。

 

カントは「存在」をレアールな述語ではないと述べた。その意味は、存在すなわち「何かがあること」は「何かが黒色である」などの状態や性質の一つではないということである。ハイデガーならば、存在と存在者の区別と位置づけるような事象を彼はこのように表したわけである。

 

俺が言いたいのもこの系列に属する。というのは、「同一の被写体を写した」という時の、「同一」とは、被写体の性質ではないからだ。

 

被写体がどれだけ多くの変容を被っても、同一個体の被写体がそれを被ったということが分かるかぎり、被写体の状態と被写体の同一性は峻別されている。そうでなければ、「コーヒーの味が変わった」という事態と「このコーヒーは前のコーヒーとは違う商品だ」という事実とが区別されないということになる。

 

そして重要なことがある。「コーヒーの味が変わったこと」と、「このコーヒーは前のコーヒーとは違う商品だ」ということの違いを我々が説明したり示そうとするとき、それはただ前提されているだけで、言うことができないということである。

 

あなたはこう言うかもしれない。「そもそも、xなんてどうやって認知したんだろう?見る限り本当にあるのは諸々の写真の連続なんだから」。

 

ちがう。あなたはツメが甘いのだ。なぜなら、あなたは写真を認め、その連続を認めているのだから。そして問題は、それが写真だとあなたが分かることそれ自体であり、その連続があり得るかどうかということそれ自体なのだ。

 

『碧眼録』だったか。盲の人々が大きな一頭の象の部分部分を触りながら「象ってのはさぁ」と口々に主張しあう。我々は微笑みながらこう言うのだ。「その部位からすこし右にいけば太くて硬い大きな脚があるし、背後に回れば可愛い尻尾があるのに」と。さて問題なのは、あの盲人どもも我々と同じ微笑みをたたえているということなのである。

 

我々はいまやこう問い返さねばならない。「我々はなぜ、かのような問いを立てることができ、そして不思議だと思うことができたのだろうか」と。なぜなら不思議なことなど何一つないのだから。そしてそれが不思議なことなのである。

 

我々はこのような立場にある。

 

・どの写真にも同一の被写体xが写っているということを不適切に表現すると、いわば無限回の「連続」をしていると言わざるを得なくなる。

・だが本来尋ねたいことは、その連続が何を連続させているのかということのその「何」の所在である。だからこれはただ前提されているに過ぎない。

 

さてしかし、その「何」とは、特定の内容が定まった「何」なのだろうか?あなた自ら思考してみよ。