微生物学と神学
たとえば膣に乳酸菌が多く生息しているのは乳酸菌が赤ちゃんの中に住むためだという文章を見ると、まるで乳酸菌には意思があるかのように感じられる。こいつら賢いよな。
しかも赤ちゃんが母親から菌を受け継ぐことは赤ちゃんの生存可能性や発育に強い影響を与える。おお一つ一つの出来事がうまいことすべて繋がっているように見える。しかも互いにそのつもりは皆無だ。でも繋がってる。
赤ちゃんが生まれてくる時肛門のほうに頭を向ける瞬間があるらしいが、その時に母親の排泄した大便の中の菌を受け継ぐなんて話も見た。おお、まるで一つ一つの出来事が云々。
おそらくこんな具合の直感が因果応報やら勧善懲悪やら目的論やらインテリジェントデザインやらの根っこにあるんじゃないだろうか。
人間はかつてからの腸内微生物との共生をやめてしまい、それ以降爆発的に肥満やアレルギー反応、うつ病や多動症などの精神疾患が増えた。彼らに共通したところは腸内の微生物の多様性が失われていることだった。
ところで、こんなことも言えないだろうか。こうやって人間を腸内の微生物の重要性に気付かせるよう仕向けている微生物がいるのではないだろうかと。これで生存する可能性を高めている微生物だっているだろう、うまく繋がりそうじゃないか。
ただそうするとこう言いたくなるだろう。なら人間の意思がないじゃんと。
そう、なくなる。そしてこの帰結は重要な示唆をしている。
先程乳酸菌は赤ちゃんの腸に住み着くためにとか、赤ちゃんが生まれてくる時頭の方向が云々とか書いただろう。この時私たちは、乳酸菌や赤ちゃんの頭の方向には何らかの意思や意味があるかのように記述している。
だか私たち自身に関してはどうだろう。
というのも、どうやって私たちは、私たちに微生物を認識したいと思わせる微生物がいるということを"認識"するのだろうか?ここで著しい反転が起きるていることに注意せよ。明らかにもしそうなら、意思なんて何の意味もないことになるからだ。
つまり意思があり得るためには、「私たちにも意思なるものがある」ということそれ自体が障害になる。
あるいは少なくとも"私たちの意思"は他の意味ある出来事や意思ある生き物に見出されるそれとは違う次元にあるはずだ、とでも言うしかない。だがもし違う次元にあるなら何でわざわざこんなことを言うのか意味がわからない。ただ同じ名前をつけているに過ぎないのだから。
こうも思うかもしれない。ではそんな元々意思について意味のなかったはずのこの世界で、いったいなぜ、乳酸菌や赤ちゃんの頭の方向に、その無かったはずのものを全くの錯覚かもしれないとしても見出せたと思ったのかと。いや錯覚だと気付くということ自体が、この世界で起きていることが奇妙ではないだろうか。
こうして微生物学は神学になり、そして存在の謎にすり替えられたのでした。
オールフリーについて
においが独特で、ガソリンみたい
今期アニメ
かくしごと・・・シンボリックが気持ちいい。思考に優しい。塵芥にさえ意味があるんだという気がしてくる。ED曲、タイトルも歌詞もいい。究極のフィクション。
八男・・・宝野アリカとデーモン小暮閣下がopを担当したからというただそれだけで視聴した。にしては良い。自宅キャバクラを築くまでに何をするのだろう。
プリコネ・・・主人公騎士くんに対する描写の細かさがいい。ゲームでは細かいところが描写されていない分、アニメでは自由にできるんじゃないかと思うから楽しみ。
イエスタデイ・・・タイトルに釣られた。これ振られちまったけど大丈夫か。金髪のバンドボーイがやけに立体的に見えた。どこにでも居そうだけど居ないようなやつ。絵に描かれても食えそうな餅。主人公の男はすごいよ。眠り眼のまま客と対応できるんだから。
話変わって、仕事をしていると文体が奇妙になるって思った。
言葉がもつれて、多くの言葉が省略され、多くの繋がりが分かれていく。
使わねえよその言葉、ってな言葉がぼくの指からこぼれていく。哲学ならいいけど仕事ならまずいよなこれ。ああ、パワーポイントって難しい。
ぼくにとって言葉は細胞みたいなものなのか。身体の持ち主の意思いかんとは関係なく、否、その持ち主の結ぶ関係それ自体だから、際限なく生えてくるかと思えばすぐに沈んでいく。
去らば日曜日の使者へ
わたしは自分が生きていることを心臓の鼓動によって確かめはしない。
わたしは自分の瞳が黒いことを生きていることの証にしても、証に仕立てたから生きているわけではない。
わたしの目の前に目は無いのに、目の前だとわかるのは奇妙な話。このときの"わたし"は誰?目ってどこ?
目の前の"何か"が通り過ぎていく。
誰かが、この"何か"のことを教えてくれる。
あの人はお隣さんよ、あの人の使ってる自転車は電動式だ、いや間違えた確かダイエットのために普通のにしたんだった、云々。
誰かは正しいことを言ったこともあるし、今みたいに間違えてしまうこともある。何にせよ色んなことを教えてくれる。でも教えてくれないことがある。
それは、"何か"のことだ。何かについて、誰かは正しいことも間違ったことも言う。だけど、何かがその時存在していることは、間違いもせず正しくもなく、ただ自然と、成立している。
わたしも"何か"も、ただ忘れられながらある。
詭弁
人は知ることを欲するとかアリストテレス先生がおっしゃってましたが、これに僭越ながら、できることならなんであれ真実を知りたいとも望んでいるのではないかと加えたい次第でございます。
いや、これもそもそもアリストテレス先生が書いてたっけ。まあいいや。『形而上学』は彼にあげてしまっているし、確かめようがない。
さて探求するにあたって、真実とは何の且つどんな真実なのかというとが問題になるのだろうが、実は"これ"こそまさに知りたいことなんじゃないか。
つまり私たちは自分の知識について満たされていないと確信しているわけだが、その全体像(どこまでいけば満たされたと言い得るか)こそまさに知らないのだから、実は満たされているのかいないのかこそ本来は不明なはず。
しかし満たされているのかいないのかが不明であるなら、逆説的に、確かに私たちは満たされていない。なぜなら不明とは知らないということであり、知らないということは満たされていないということだから。
しかしそれではこの欲求、すなわち、「何であれ真実を知りたい」はなぜ発生したのだろうか。
さらに言い換えれば、なぜ知りたいという欲求の対象が真実であることは確かなのだろうか?さらに正確に言えば、発生したものが「何であれ真実を知りたい」だと知っているのは何の因果だろうか?
真実とは何かを知らないのに、真実を求めているのだとしたら、何を得たところで満たされはしない。何を得ても、それが真実だと分からないのだから。
だから、もし真実やら真理と称される何かについての探求がそもそもあり得るのだとすれば、そして満たされることがあり得るのだとすれば、何か真実の手掛かりになるものを元々持っていなければならない。
しかしそれは一種の自演ではないか。
これはまるで、「人は真実や真理を知りたい」というのは正確な表現ではなく、知っているものはともかく真実であると確信しない限り真実や真理を知ることはできないと言っているように聞こえるからだ。そして人は、この"錯綜"にほとんど目を止めない。
なるほど、人類がかつてから知りたがっていた究極の真理というのは、「人類が欲しているもの"が"真理だということなのだ」と"知る"ことなのだ。
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万年筆は書きづらい
郵便局
そのことにウソをついているわけではないのに、どこに行ったのかという質問にさえ罪悪感を覚える。
たぶん質問というもの自体に、私は戸惑ってしまっているのだ。
私はただ、郵便局に行っただけだ。ウソはついてない。なのになぜ、舌がもつれてしまうのか。
このことは、届いて欲しくないものだ。いいや、実は届いた上で忘れてほしいのかもしれない。